【トイストーリー4感想】ウッディー、あんたの幸せって………

トイストーリー4を見ました。

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風貌が全くの別人のようになっていたボーピープの予告など、公開前からざわついていた今回のストーリー。公開開始後も見た人の間ではかなり賛否が分かれていました。


そんな中、ついに映画館へ行き、家に帰ってきた今

呆然としています。

 

つらい

本当につらい

 

価値観の多様性が言われている時代だし、どうキャラクターが動き、どうストーリーがどう展開しようと自分は受け入れようと思っていました。

が、こんなに受け入れられないものなのかと…。

 

ストーリー自体への不満、制作側への批判は全くないんです。

ただ、トイストーリーを123と数十回見てきた自分にとって、ウッディの存在はやはり特別なわけで。最後にウッディーが決断したことは正しかったのか。ウッディー、それは本当の幸せなのかと。そうウッディーのことを想うと、この結末はどうしても、どうしても受け入れきれませんでした。

映画が終わってもざわつき続けるこの心をなんとか抑えようと、他の人の感想レポートを見て回るも、ざわつきは高まるばかり。そして今ここにモヤモヤを書きなぐっております。

 

おもちゃとして可愛がられなくなったウッディーは、新しく仲間に入ったボニーの手作りおもちゃのフォーキーの面倒を見たり、旅行先のアンティークショップで出会った子どもの人形のギャビーギャビーに、ずっと身につけてきた自分の背中の装置を外して彼女に付け替えてあげたりと、自分が傷つこうとも相手に奉仕し続けていました。自己犠牲の精神、いわばアンパンマンのような。

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そしてウッディーは同じく遊ばれなくなり、アンティークショップに置かれ続けていたボーピープと数年ぶりに再会します。ボーピープからおもちゃは自由に生きていいのだということを知ったウッディーは、最後にはボニーやバズ達の元を離れ、ボーピープと共に新たな生き方を求める道を選んだのでした。

 

確かに、おもちゃであろうと自由に生きる権利はあるし、ウッディーがその道を選ぶのが幸せだと想うならそれが一番いい。が、しかし、彼にとって自由になることが幸せだったとは、自分にはどうしても思えません。

やはり、おもちゃにとって一番の幸せは、持ち主に遊んでもらうことなのではないでしょうか。いや、おもちゃに限らず、人間だってそうです。誰かに愛されているという感覚、自分が大切な存在として見てもらいたいという思いを満たしてくれる存在があることは生きる上で本当に大事なことです。おもちゃにとってこの気持ちを満たしてくれるのは、自由に生きることではなく、誰かに遊んでもらうことのみなのだと思います。

 

作中にあったウッディーの過剰とも言える自己犠牲の精神は「自分は愛されたい。でも、自分の身を削ってでも誰かの役に立たないと自分は愛してもらえないのだ」という、哀しき境遇から生じていたものであるように見えました。

一方、おもちゃの自由をウッディーに教えてくれたボーピープ。以前のドレス姿とは一転し、マントを身につけた強い女性のキャラクターとして描かれていました。一方で、ウッディーにアンディーといた頃の話を振られると、都合の悪いような反応をして誤魔化すばかり。共に長い間行動していたミニチュアフィギュアのギグルには当時のことを一切話していないようでした。

この様子を見ると、ボーピープのこの姿は、強さではなく、過去の悲しみをごまかし、強がる気持ちの結果だったのではないでしょうか。彼女は今でもきっと、子どもに遊んでもらい、愛されたいと思っていたはずです。自由を謳う強そうな彼女の底にある、悲しみや弱さに作中では誰も目を向けきれていなかったことは本当に残念なことでした。

 

映画のラスト、ウッディーたちは誰かに遊んでもらうのではなく「迷子のおもちゃ」になる決断をし、移動遊園地の射撃コーナーにいた同じ迷子のおもちゃたちを子どもの元へ送りとどける役目をもち、新しい生き方を始めるのでした。

なんだかいい感じの結末で終わっていたようでしたが、ここもやはり納得できません。だっておもちゃがそんな仕事やる必要なくないですか…?ウッディーは「ボニーに愛されたい」という本当の思いがこれからも満たされない辛さからただ逃げたかったのではないでしょうか。

「誰かのためになりたい」という思いは一つの形で実現でき、この結果は今のウッディーなりにできる幸せの形の一つだったのかもしれません。ただ、射撃場のおもちゃたちは子どもの元に渡ると、きっとすぐにウッディー達のことを忘れてしまうでしょう。そのおもちゃで遊ぶ子ども達の幸せそうな姿もウッディー達は直接見ることができません。ウッディーたちに本当に必要な「誰かに直接愛され、必要な存在だと思われたい」という思いは結局満たされないままです。

ウッディーがボーピープと再会できたのは本当に良かったとは思いますが、共にいても満たされない愛の傷はこれからも埋めることはできず、ただ舐め合い続けるだけの関係であり続けるかもしれません。世に言う共依存カップルのような。

「今ごろバズたちはボニーに遊ばれてるんだろうな…」

そんなことを何度も考えてしまう、これからのウッディーの未来の姿を考えると、あまりにも辛く、見てられません。

 

おもちゃが子どもに遊ばれなくなることは必然的な出来事であるし、自分自身も過去遊んできたおもちゃに同じ仕打ちをしてきたのだと思います。

ただ、それがフィクションであるならば、わざわざ目の前にそれを突きつける必要はあったのか…。できれば見たくなかった…と言うのが正直な感想です。

ストーリーは本当に緻密にできていて、この状況ならキャラはこう感じ、こう判断するのも無理はないと、どのシーンでも思います。だから本当にストーリーに不満はないんです。が、一つだけ言いたいことを言うとすれば

「このストーリーを作らないで欲しかった…」ですかね…。

 

夜9時に映画を観終わり、これを書き始めて現在深夜2時…。モヤモヤは自分なりにスッキリしましたが、一方で同時に生じた「ウッディーロス」はもうしばらく続きそうです。。

見る人によって様々な感情を持つ映画だと思います。よければぜひ皆さんの感想も聞かせてください。そしてどうか、ウッディーロスのつらさ、つらさ、そしてつらさを僕と分かち合ってください。

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